隣人

どうして、そんな物に気がついたのか、自分でもよく分からない。
ただ、最初はちょっとした違和感。何かが違う。そういう気がした。
引っ越ししてきたばかりの家だから、なんとなく落ち着かないのは、しょうがないのかも知れない。でも、そういうのとも違う。何とも言えないむず痒いような感覚がしたから。
その根元を突き止めたくて、部屋中を歩き回ってみた。
ギシギシと歩くたびに、床を踏み付ける音がする。

私は、この春から帝都大学の法学部に講師として転勤してくる事になった。
それに合わせて、大阪から東京に、今日引っ越してきたばかりだ。
大学講師の給料なんて、スズメの涙ほどしかない。
引越代金を少しでも安くあげるために。こんな、平日の昼間に軽トラを借りて、自分に必要な身の回りの荷物だけを持ってきた。
今、テレビの配線を終えて、部屋の中央に座卓を据えたばかり。室内も、やっと部屋らしくなった。テレビがきちんとつくかどうか。確認してみよう。それとも、もうそろそろ夕飯の支度をしようかな…。

そう思って、座卓の前に座った時に、ふと、違和感を感じたのだ。

だから、私は、とりあえずテレビを消して、さっき言ったように部屋中を歩き回ることにした。
「……これか…」
違和感の正体は、すぐにわかった。
壁の一部分の色が違うのだ。

私がテレビを見ようと座ったとき。ちょうど視界に入る。顔の横の壁の部分。親指大くらいの大きさで色が違う。
色か違うといっても、本当に微妙な差だけれど。部屋を一瞥しただけでは、分からないだろう。むしろ、じっくりと部屋中を見ないと分からないと思う。
すすけたベージュの壁紙と、まったく同じような色なのだけれど。よくよく見てみると、確実に色が違う。
どうしてだろう…と指で、その部分を押してみた。
ぐにゃりとした、なんともいえない弾力が指を押し返してくる。
油粘土のようだ。
壁に穴が開いてしまって、それを粘土で塞いでいるのだろうか。だったら、大家に言わなくてはいけない。引越をするときに、敷金礼金の中から、差し引かれてはかなわないから。最初から穴が開いていたということを、報告して、証明として写真を撮っておかないと。

私は、壁に模している油粘土を、指で掻き出した。
案の定。壁に親指大の大きさが開いている。指先に、油粘土のベトベトとした感触と、壁材の粉塵がねっとりとからまりつく。

穴は、壁を貫通して、隣室まで空いているようだった。
こうして見てみると、悲しいほどに壁が薄く、安陳腐である事を証明しているようだ。
私の持っているデジカメの方が、分厚いんじゃないのか…と思うほどに薄い壁。
こんなにもぼろいアパートで、一ヶ月に家賃をあんなにもとるというのは、詐欺同然じゃないのだろうか。
これでは、音も丸聞こえだろうな。
そう思って、その穴を覗いてみたのだ。

真っ黒で、ぽっかりと空いている、丸い穴に、興味惹かれたのだ。心のどこかで、「隣室はどんな奴だろう」と思っていたのかも知れない。それで、覗いてしまったのかもしれない。こんな都会の中では、隣家に誰が住んでいるのかも分からない。引越てきたという挨拶をするのも、仰々しい気がして、していなかった。
どうせ、こんなボロアパートに住んでいる者同士。挨拶をするような必要もないだろう。

最初は、真っ暗だった。
でも、視界が馴れてくると。白い光が入ってきて。
部屋の中央に、誰かが居るのが分かった。
じっと、よく瞳をこらして見ないと、造形がぼやけて、よく見えない。

私は、膝立ちになって、顔の横に両手をついて、壁に顔を押しつけた。
小さな穴だけれど、意外と隣家の室内の様子がよく分かる。
隣家は引っ越してきたばかりの、今の私以上に室内には、何もないようだった。
ベッドとテレビとミニテーブルだけが見える。
あとは、家具らしきものは何もない。

中央に居るのは、青年らしかった。
最初はぼんやりとして、ぼやけてしか見えなかったが。
じっとみていると、焦点が合ってくる。

その青年の顔が一瞬、くっきりと見えた。ずいぶんと美しく見えた。
こんなアパートには似合わないような、洗練された青年。
そんな美しい青年が、じっと部屋の真ん中に、座っている。
何をしているんだろう…。素朴な疑問がわいてきた。

私は、顔を壁に擦りつけるようにして、右目に全神経を集中させた。
無理な姿勢で、腰が痛くなってきていた。

「あ……あ…」
声が聞こえたのか。
もしくは、青年の表情を見て、私が勝手に頭の中で声を作り上げたのか。

青年は、よく見ると、下半身に何も履いていなかった。
上半身はきちんとシャツを着ているのに。白い太腿は剥き出しで、くすんだ畳にぺっとりとつけられていた。
そうして、あぐらをかくように座って、青年は自分の股間のペニスを弄っていた。
「う……あぁ……」
自慰をしている。
まさか…。そんな。こんなにも、美しい青年が、隣家で自慰をしているだなんて。
でも、確実に、視界の中の青年は、いきり立ったペニスを、右手でつかんで、上下に動かしている。どうしてか、私には、その青年のペニスの赤黒いのまでもが、よく見える。
青年は、時折声を上げて、快感に酔っている。

ギリギリまで高めておいて、悪戯に指を緩める。
偶然覗いてみたら、色事の真っ最中だった。こんな偶然があるのだろうか…。
でも、よくよく耳を澄ますと、青年の股間の濡れた音が響いてきている気がする。
青年の押し殺したようなあえぎ声が、壁を伝って、私の部屋にも振動してきている気がする。

気味が悪いほどに、青年は扇情的だった。

私は、実は、いままで恋愛などに興味がわいたことがなかった。

高校生時代。女生徒から告白された事はあったけれど。それで、付き合ってみたこともあったけれど。純粋に、面倒くさいだけで、楽しくなかった。性交渉にしても、その段取りが煩わしくて。自慰をしている方が、まだマシだ、と思っていた。
でも、自慰にしても、グラビアアイドルの写真を見ても、イマイチピンと来ない。
いったい、自分は何に興味があるのだろうか…とおぼろげに悩んでいたのだけれど。

私は、その穴から見える光景から、目線をはずせなかった。
青年は、自慰に没頭していて、こちらからの視線に気づくはずがない。
また、性器を擦る手を速めている。
「あ……あ……」
グチュグチュと音がして、青年が、白い喉をのけぞらせた。
頭がカクンと後にたおれるように曲がって。
一瞬。そのまま頭がポトリと後に落ちたんじゃないか…とゾッとする。
しかし、すぐに、背中が波打って、恍惚とした顔が引き戻らせる。

白い首を、汗が流れていく。
あぁ、あの汗は、どんな味がするんだろう…。

口の中に唾液がたまっていく。
顔に、汗で貼り付いた前髪。それをかき分けて、もっとよく、表情を見てみたい。
快感に酔いしれて、焦点が合わなくなっている顔を。
まばたきをするたびに、青年の身体が視界から無くなるのが惜しくて。
目をランランと剥きだして、壁の穴に押しつけた。腰の痛みも、すっかり頭から消え去っていた。
ただ、目の前の光景に全身が集中している。右目が痛くなるほどに。全神経が、ソコだけに集まっている。

青年の身体が、再び、グラリと揺れる。
股間のペニスも、つられるように揺れて。
先走りの液で濡れそぼった様子がよく見える。蛍光灯を反射して、先端が濡れている。
白濁とした粘液に、ペニス全体が覆われている。
「あ……い……イク……」
青年が、背を丸めて、ギュッとペニスを握った。

その瞬間が、スローモーションのように見えた。

ペニスが、手の中でビクビクと軽く痙攣して。
先端から、粘液が、ドピュッと吹き出す。
吹き出しは2度・3度と名残を惜しむように。また、快感に未練たらしいように吹き出ている。
「あ……あぁ……」
青年はそのまま、じっとペニスをにぎって、動きを止めていた。
だから、じっくりと観察することが出来た。
青年は、見た目は二十前後くらいだろう。自分よりは、若いと思う。
現代っ子らしく、手足はひょろりと細くて、身体も薄そうだ。
首や手足は長い。だから、いちいち、動作が大きく見えるんだ。
特に、首が白くて長い。シャツの襟をたてていても、なお、白い首がシャツの襟からはみ出ている。
顔は、整っている。きっと、「美しい青年」っていうのは、彼のような人の事を言うんだろう…。
私は、彼が快感の余韻で、じっと止まっているのをいいことに、じっくりと観察して、頭の中で分析した。

だから、彼の自慰を見ていて。
自分も、パンツの中でイッてしまっていた事に気づいたのは、ずいぶんとじっくりと彼を観察して。彼が、ようやくティッシュを引き寄せようと身体を動かした。その後だった。
動き始めた彼と、目が合ってしまうような気がして。
穴から顔を剥がすと、ただの汚くてすすけたような壁紙が見える。
中央にはぽっかりと小さくて黒い穴。
そうして、私のジャージの中は、ズシリと重たいような違和感がある。

まさか…。弄らずにイク事があるだなんて、思わなかった。
自慰というのは、面倒くさくて。激しくペニスを擦らないと、出来ないもの。
そういう私の概念が、この穴一つで、ガラガラと音をたてて、崩壊させられた。

さっきまで見ていた光景が、頭の中に焼き付いて、離れない。

もう一度、穴に顔を寄せてみた。
また、あの青年が見えるだろうか。また、自慰をしていないだろうか…と期待していたけれど。
見えたのは、こちらを背にして、床に横たわる青年の背中だけ、だった
それでも、私には充分だった。

さっきまで、青年が自慰をしていたことを思い出して。

出てしまった精液で、ゴワゴワしているジャージとパンツを、引っ張るようにして、膝まで下ろした。さっき、イッたばかりなのに…。青年の背を見ているだけで、また、ペニスが硬くなってくる。
あぁ、あの青年のスラリとした肩の上には、信じられないくらいに美しい顔があるんだ。
それで、その顔は、絶頂を迎えたとき、目を剥きだしにして、ヒクヒクと唇を痙攣させるんだ。
ペニスは、全体的に赤っぽくて。特に先端はくすんだような朱色をしている。尿道口から、ドクドクと先走りの液が溢れ始めると、陰毛がペニスに絡みつく。
黒く、縮れた毛が濡れて、ペニスにからまっている様子は、まるで、大量の虫が這っているようで、気持ち悪い。だが、同時に、たまらなく興味惹かれる。
触れてみたら、どんな感触なんだろうか。
どれくらいの堅さだろう…。私のよりも、硬いんだろうか。それとも、指に吸い付くような感触だろうか…。
頭の中に、さっきの光景がどんどんと浮かんでくる。

本当は、そんな細部まで見えた訳じゃないはずだ。
でも、どこからが私の想像で、どこまでが、実際に見た光景なのか。分からない。

ただ、ひっきりなしに迫ってくる波のように、その光景が、頭からやきついて離れない。
「う……っ……く……」
壁の穴に、顔を擦りつけて、青年の後ろ姿を見ているだけで。
あたまの中が、白く爆ぜた。

2・3度擦っただけなのに。
自分の手のひらの中にあるペニスの先端から、精液が薄汚い壁に向かって、放出されている。
「あ……な……なんで……」
私は、壁をしたたる白濁とした粘液を呆然と見つめた。
こんなにも興奮してしまうのは、何故か。
でも、頭の中に、青年の白い首筋や、剥き出しのペニスを浮かべただけで。また、性器が硬くなってきそうな気がする。

私は、今まで、性的欲求が薄い方だと思っていたのに。
「う……」
壁の穴が視界に入ると、また、チンチンに血液が集まっていってしまう。

私は、慌てて、さっきの油粘土の塊を拾い上げて、穴に押し込めた。
ぽっかりと真っ黒だった穴が塞がれて、壁と同じ、すすけた色にかわる。
こうして見ると、穴は完全になくなったように見える。

「………」
私も、ティッシュをとって、自分のパンツの中と壁についた精液を始末した。
なんだか、自分が出したモノだけれど。出したという実感がない。
夢でも見ていたような気がする。

でも、思い出すと。頭の中が、高熱を出したときのように薄ぼんやりとしてくる。

初めての感触だ。こんな…。
こんなにも興奮することがあるだなんて…。
現実の事だったのだろうか…。
この穴は異次元につながっていて、すべては、幻だったような気がする。
もしくは、私は、夢を見ていたんじゃないだろうか。
こんな、穴一つ。たった、親指大の事に、こんなにも気持ちがかき乱されるだなんて。
信じられない。
「………」
私は、立ち上がって、じっと穴を見下ろした。
どれだけ見ても、油粘土が見えるだけだ。

でも、見ればみるほどに。さっきのことは、幻だったように思う。
この私が。そんな、性的な事で、神経をかき乱されるわけがない。
そんな、下劣な事で、興奮するはずがない。

考えていると、確認しなければならないような気がしてきた。

今までの事が、本当だったのか、どうか。
「そうだ……」
私は、買い置きをしていた洗剤を手にとった。

隣室に、「引っ越してきました」と挨拶に行けばいい。
そうすれば、きっと、本当に、あの青年が出てくるだろう。間近で見たら、美しい青年じゃないのかもしれない。
こんな穴から見ているから、妙に綺麗に見えるだけで。
今だったら、居るだろう。
私は、自分の考え出した妙案に一瞬自分で酔いしれた。

やはり、私は、頭が回る。
あんな、隣室の青年の自慰などという下劣な事で、興奮したのなんて、ちょっと、気持ちに隙があったからだ。
それに、青年を間近で見てみたい…という興味もあった。

私は、洗濯用洗剤を片手に抱えて、薄っぺらいドアを開けて、左側の隣のドアの前に立った。
表札には、何もかいていない。こんなボロアパートでは、それが普通みたいだ。
「すみません」
私は、薄いドアを、ドンドンと叩いてみた。
きっと、すぐに青年が出てくるだろう。

そう想像していたけれど。
しばらく待っても、中からは何の反応もない。

「すみません」
再度、ドアを叩いてみた。
けれども、シンと静まりかえって、ドアは開きそうにない。

まるで、誰も居ない部屋みたいだ。
いや、でも、さっき、確実に、この目で青年が自慰をしているのを見た。
青年がドアを開いて、出ていったならば、その音がするはずだ。
まさか…。
青年は、この部屋の中に居ないとか。
すべてが、私の見た、幻だった…とか。
「っつ……」
想像すると、背筋がゾクッとすくみ上がった。
気持ちが悪い。
私は、ガチャガチャと音をたてて、ドアノブを引っ張ってみた。

「そんなにしても、無駄よ…」
不意に、女の声がした。
つかんでいたドアノブから手を離して、右側に顔を向けてみた。
キャミソールに派手な色のジャージを着た女が、私のドアを一つ飛ばして、右隣のドアを開けている。
「そこの人、足が悪いらしいから。出てこないわよ」
女は、一瞥しただけで、夜の仕事だろう…という事が分かる。こんな安陳腐なアパートがちょうどお似合いだ。
長くて、美しく巻かれた髪の毛を見ると、きっと、これから出勤なのだろう。
「お宅、引っ越してきた人?」
女は、ジロジロと値踏みをするように、こちらを上から下まで舐めるように見ている。
「えぇ。今日、越してきた安岡伸二です」
軽く頭を下げながら、女の方へ歩みを寄せた。

近寄ると、濃い化粧が女の顔にくっきりと施されているのが、浮き立つように見える。
きっと、薄暗いラウンジなどでは、この安っぽい化粧も、ばれないのだろう。
「ふぅん…。そっちの人、ちょっと、アレみたいよ…。
 週に何度か、親族の人が来て、介護しているらしいけど、ね」
近づくと、女は声を潜めて、あざ笑うように舌で唇を舐めた。こんな、ゲスで化粧臭いおんなより、さっき、穴の中から見た青年の方が、どれだけ美しいだろう…。
「あぁ、これ。どうぞ。宜しくお願いします」
私は、抱えていた洗剤の箱を差しだした。
綺麗にネイルされた指が、箱を受け取る。
「平日の昼間に引越だなんて、珍しいわね」
ジロジロと下世話な視線が痛い。
「私は、この春から帝都大学の講師になりました者で…。まだ名刺はないのですが…」
女の目が、一瞬光った。
「そう…。先生さんなの…。ずいぶん若く見えたから、学生さんかと思っちゃったわ。
 よかったら、お茶でもしていく? 」
女の目の色が、スイッチでも切り替えるように、変わった。
定職についていると分かったから、「隣人」が、「金を引き出せそうな人」に変わったのだろう。それに、大学の講師という肩書きは、こういう仕事の女性には、魅力的なのだろう。きっと、理知的に見えて。
「いえ…。それは、また。まだ、片づけが残っているので」
「そう? じゃあ、分からないことは、何でも聞いてね。私、ここに住んで長いから」
わざとらしく、唇をゆがめて笑みを作っている。
薄気味が悪い。
視線を逸らし、会釈して、自室のドアを開けた。
右側には、あんな下世話な女が住んでいるのかと思うと、ぞっとしない。
顔にぬったくった化粧の匂いが。壁を通り越して、して来そうな気がする。

でも、左側は。足が悪いのか。だったら、ドアを叩いても、出てこられないのもしょうがないな。
「アレ」だなんて言われていたが、本当だろうか。
とても、そうは見えなかった。
と、言っても、自慰をしているところを見ただけだから、何とも言えないのだけれど。

私は、なんだか、左側の壁が、ひどく薄いモノのように感じた。
出来ることならば、直に、青年を見てみたい…。その欲求が、たまらなく突き上げてきた。
こんな穴越しでなく…。

私は、再び、立ち上がって、粘土でふさがれた穴の前に座った。
自然と、頭の中に、さっきの自慰の光景が浮かんでくる。
それだけで、また、股間が熱くなってくる気がする。

どうして、こんなにも興奮してしまうんだろう。
いったい、隣人は何者なのだろうか。こんなにも、心乱す相手を知りたい…。

なんとかして、顔を見ることができないだろうか…。

気がつけば、私は穴の前で1時間以上も、じっと壁を眺めていた。

この壁の向こうの、あの、青年の正体を知りたい。
そうして、この、私の感情の正体を知りたい。

じっとみていても、くすんだベージュの壁紙は、何も語ってはくれなかった。

2012 05 13UP
ちょっと、手法を変えてみました。
というか、なんとなく気分を変えたくて、書いてみました。
エロイのを期待していた人には、ごめんなさい。
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