通夜の夜に

No,1

  春馬はその言葉に「約束する」と頷きながら、「きっと、自分はここに戻ってくる事はないだろう」と思った。

 意外だったのは、叔父の反応だった。母方の弟にあたる道尾 理一(みちお りいち)という彼は、身体と精神が弱いので職にはつかずに春馬の家に同居していた。二階の一番奥の部屋にこもっていた叔父とは、食事の時くらいしか顔を合わせた事がなかった。
 色が白く、女のように華奢でいつも青い顔をしていた。
「街の大学に行っても、長い休みにはかえってくるんじゃよ」
 母が何気なくそう言ったとき、叔父の理一は初めて春馬の顔を真正面から見た。
「君、ここをでていくの?」
 もう、三月半ばで大阪のK大学に合格し、進学が決まっていた。そろそろ両親と下宿を探しに行こう、という時期だった。
 春馬は、叔父がまだ「春馬がここをでていく事」を知らなかった事の方が意外に思えた。
「はい。大阪のK大に行くんです」
 叔父は苦手だった。いつも俯いてもそもそと食事をしている姿しかしらない。それ以外の時間は部屋にこもってただ本を読んだり、映画をみたりしているだけのようだった。
「あぁ……。K大か。そう。それはよかったね。名の通っている大学だね」
「はぁ……」
 春馬は久し振りに叔父と言葉を交わしたような気がした。一瞬だけ目が合った。母とは年の離れた姉弟なせいで、春馬とは十歳しか年が変わらない。それなのに、日光に当たらず白い肌をして細長い首を持っている叔父は、自分とはかけ離れているように感じられた。

 叔父と最後に交わした言葉が、ソレだったような気がする。
 いや、むしろ叔父と直接に言葉をかわしたのは、記憶にある限り、それだけのような気がする。

 だから、「叔父の訃報」を電話越しに聞いても、実感が湧かなかった。
「叔父さんか……。やっぱり、帰った方が良いのかな?」
 
 春馬はK大を卒業すると、大阪の設計事務所に勤務した。もう、S村をでてからちょうど十年が経過している。
 母との「大学を出たら帰郷する」という約束も反故にしていた。それどころか、この五年間は一度もかえっていない。何度か母から「一度くらい顔を見せなさい」という電話があったけれど「忙しいから」と無視をしていた。

 それに、こちらでの生活が充実していた。
 大阪は、想像していたよりもずっと大きかった。インターネットで調べて、自分と同じ嗜好の人たちが集まる店に行けば、いくらでも自分を解放して思うがままに充実した暮らしを過ごす事が出来た。
 大学生時代はいろいろな男と経験を持って遊びほうけていたけれど、就職をして、生活が落ち着いてからは「本当に好きな相手」というのを探すようになった。
 幸いに、四年ばかり前に今の恋人と出会い、同棲をはじめてから三年が経っている。
 恋人との関係も順調だった。

『何言うてるん。理一やよ。あんたの叔父さんが亡くなったんじゃから、当然かえってきなさい。明日通夜をして、明後日お葬式じゃから。会社も、忌引き休暇取れるでしょう』
 電話の向こうの母は珍しく厳しい口調だった。
「あ……うん。分かった。まぁ、なんとか……。帰るようにするよ」
 春馬はスマホを切ると、椅子に座り直して目の前のパソコン画面を眺めた。
 五月の終わりなので、ちょうど仕事も一段落がついた時期だった。二・三日休んでも仕事に支障はないだろう。
 ただ、もう五年も帰郷していないあの村に行くのか……と思うと気分が重たかった。以前に帰ったのは妹の結婚式の時だった。しかし、行かないで居て、母から叱責されるのも面倒だ。
 春馬は椅子から立つと、まっすぐに課長のデスクに向かった。
「すみません。あの、叔父が亡くなったのでちょっと休みをもらいたいんですけれど……」
 言葉にだして言ってみても、どこか現実感がなかった。ただ、どっしりと肥えて大柄な課長は、数言社交辞令的な言葉を吐いた。
「そうだね。君は有給休暇も消費していないし。故郷でゆっくりと親孝行でもしてきたらいいだろう。幸いにも、案件が落ち着いた所だしね」
 先日、大きなプロジェクトを春馬がまとめ上げたばかりだったので、上司の反応も好意的だった。
「はい。通夜と葬式。あと、すこしは片づけなどを手伝いたいので、四日間程度休暇をいただきたいのですが」
「あぁ、いいよ。じゃあ、出勤は週明けだね」
「はい。すみません」
 春馬はデスクに戻ると、パソコンを操作して故郷までの新幹線のチケットを予約した。
 今晩帰って、恋人に事情を説明してから、喪服などの荷物をまとめなければいけない。でも、できるだけ早くに帰った方が母からの小言もすくなくてすむだろう。
 春馬は明日の朝の始発電車の指定席を予約した。新幹線で岡山まで出て、そこからは特急でN駅に向かう。そこで普通電車に乗り換えてS駅で降りる。
 最短でも四時間程度がかかる。それだけ電車に揺られる事を考えると、春馬の気持ちは重たくなった。

 会社からの帰りに、田舎への土産物をデパートで購入した。恋人に「叔父が亡くなったから、四日間程度故郷に帰る」と言うと、恋人の方が動揺した。
「叔父さんが亡くなったの? そう……。辛いね。悲しいね。人が亡くなるのって、とても辛いよね」
 ベッドで、恋人は朝までずっと春馬の頭を胸に抱きしめて何度も髪の毛を撫でてくれた。この手と四日間も離れる事が辛く思えた。いや、葬式が終わったら早々に切り上げて帰ってきて、恋人とゆっくりと過ごすのも良いかも知れない。
 そう思ったけれど、そんな事をいうと、恋人の優しい手が離れていきそうな気がしたので、だまってたた恋人の胸に顔をうずめていた。彼の細い腰に手をまわして抱きつき、彼の細い鎖骨が頭にふれている感覚に、身を沈めていた。

 翌朝は喪服と土産物の入ったキャリーをひいて、大阪駅から新幹線に乗った。
 窓の外の景色はめまぐるしく変わっていく。大阪市内をでると一旦景色が広がるけれど、すぐに三宮・神戸あたりで再び都会がせまってくる。しかし、そこをでるとだんだんと視界が遠くまでひろがるようになる。岡山手前になると、再びビル群がせまるけれど、大阪や神戸の比ではなかった。
 そこから在来線に乗り換えて特急に乗る。
 そうすると、完全に景色は「田舎」に向かっていく一方だった。

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