通夜の夜に

No,2

 久し振りに目にする風景に、だんだんと記憶が過去に戻っていくような気がした。
 N駅で乗り換えてS駅で降りると、身体の中身が完全に「高校生」だった頃に入れ替わるような気がした。
「春馬さん」
 駅を降りると、妹の夫・剛が出迎えに来ていた。
 五年ぶりに見る婿養子の男はわずかに目尻にシワができていたし、田舎の公務員独特の「田舎臭い」雰囲気をまとっていた。
「お久しぶりです」
「あぁ、そうだね」
 ステーションワゴンの助手席にのると、後部座席にチャイルドシートが二つついているのが目に入った。
「もう、大きくなったんだろうね」
「はぁ。今がいちばんやんちゃ盛りなんで、目を離す事が出来ませんよ」
 春馬は年賀状の写真でしか見た事のない自分の甥と姪の顔を思い出そうとしたけれど、出来なかった。
「上の子は……。そろそろ幼稚園かな?」
「そうですね。来年から幼稚園です。でも、また十月には次ができますから。落ち着く事が出来るのはだいぶ先になりそうですね」
「へぇ、千夏、妊娠しているのかい?」
「えぇ。あれ? 千夏、義兄さんには言ってませんでしたか?」
「あぁ」
「しょうがないな……あいつ」
 車窓の風景はどんどんと流れていく。五年前にはなかったマンションができていた。以前は大きな家があった場所に、何軒もの建て売り住宅がたっている。そうかと思うと、昔の旧道のままの狭い道もある。変わっていないものと変わっている物とが混在している。微かな混乱を覚えた。しかし、車が進んでいくにつれて、徐々に景色はひらけて、五年前と変わらない風景となった。変化があったのは、駅前と大きな国道沿いだけのようだった。
 S村も山に近い奥の方は、何も変わっていないようだった。実家の白い塀が延々と続いている。古い木製の門構えも、その脇の潜り戸も変わっていなかった。
「着きましたね。車を停めてくるので、義兄さんは先にはいっていてください」
 義弟に言われて、春馬は車から降りて、潜り戸から庭に入った。
 そこに広がっている景色はまったく変わっていなかった。一気に、時代をさかのぼったような心地になった。自宅の戸まで歩いていくうちに、だんだんと自分の中の時計が逆行していく。
「ただいま」
 引き戸をあけるとすぐに広い玄関があり、その奥に広い板張りの床が広がっている。
 しばらくそこに立ちつくし、五年ぶりの景色を眺めていた。
「あぁ、春馬。おかえり」
 地味な色の着物を着た母が、奥から現れた。母の頬はこけてシワが深くなり、顔の肉がたるんでいた。春馬は否応無し「五年」という歳月を感じた。
「もう、みんな集まっているから、あんたも顔を見せなさい。従兄弟のみっちゃんも、よっちゃんもかっちゃんも来とるけん。あんた、かっちゃんの嫁さんと会うのは初めてじゃろ」
「……うん」
 名前を言われても、ピンとこなかった。従兄弟とは中学生までは学校が一緒だったけれど、高校でわかれてからはほとんど顔を合わせた事がない。子供の頃の姿しか覚えていないし、それもぼんやりとしたものだった。

 キャリーケースを玄関に置いたままにして板の間にあがり、縁側を歩いて奥の和室に行った。襖をはずして、三十畳程度の広間のようになっている。
一番奥に、白い着物を着て横たわり、顔を白布で覆われた叔父の遺体らしきものがあった。
そこから二メートルばかり離れた場所に、大きな黒柿の座卓が置かれていて、二・三十人の人がそれを囲んでいた。
見覚えのある顔もあれば、まったく知らない顔もある。従兄弟やはとこ、遠縁のものから、近所の人達まであつまっているので、部屋の中は賑やかだった。
「おぉ、春馬。久し振りじゃの」
「おう、克彦」
 知った顔を見つけると、ホッと肩から力が抜けた。
「何年振りや? お前、全然帰って来とらんらしいの。叔母さんがよう愚痴っとるよ」
「あぁ。まぁ。仕事が忙しいから……」
「俺の結婚式にも出んで……。ほら、俺の嫁さん。初めてじゃろ」
 克彦は割烹着を着て茶を運んでいる女性を呼び寄せた。
「これが嫁さんの愛子」
「はじめまして」
「あぁ、どうも。はじめまして」
 春馬は地味な顔立ちに薄化粧の女に軽く会釈した。彼女は「どうぞ」と春馬の前に茶を置くと、すぐに立ちあがって台所の方へと下がっていった。
 こんな田舎では、いまだにこういう時には女性陣が接待の役をする。
「お前はまだ結婚せえへんのか?」
「まぁね。まだ考えていないな」
「はよ結婚したほうがええ。都会モンは『結婚なんて考えていない』とかいう奴もおおいらしいけど。やっぱり、結婚はええぞ。子供もかわいい。子供と嫁さんを見てたら、仕事にも精がでるぞ」
「…………」
 春馬が黙って茶を飲んでいる間に、克彦は大きな声で「廉治」と叫んだ。子供達が輪になって集まっていた中から、三歳程度の子供がひょこひょこと歩いてくる。
「俺の子供の廉治じゃ。かわいいじゃろ」
 克彦が子供に「挨拶せぇ」と言うと、子供は大きな目でジッと春馬を見上げてから「廉治です」と頭を下げた。
「あぁ。おりこうさんだね……」
 春馬は子供と対峙して、どう接して良いのか分からず、曖昧に頭を下げた。子供はじいっと上目遣いな大きな目で見つめてくる。そうすると、なんとなく薄気味悪いような息苦しさを覚えた。目を逸らして茶を飲み、「そうか、子供が居るんだから飴でも持ってきていれば良かった」と後悔した。
 克彦が「戻ってええ」と言うと、幼児はすぐに子供達の集まっている輪の中に戻っていった。
 
 春馬はぐるりと周囲を見回した。みんな、めいめいに雑談していて部屋の中は賑やかだった。この村の風習は通夜の夜はできるだけにぎやかにして、逝く人も楽しめるようにすること」というものだった。春馬は一旦腰を落とした克彦の隣から移動するのも煩わしくて、そのままそこに腰を落ち着けた。
 克彦は「ちょうど田植えを終えたばかりでよかった。そうでなかったら、みんな忙しいけんなかなか集まれん。夜になったら、酒目当てに、もっと来るぞ」と言っていた。これ以上、この部屋の中に人が集まるのか……と思うと、春馬はなんとなくゾッとした。

 男達はいつまでも雑談を続けている。女性陣はキッチンで忙しく夕食とつまみの準備などをしていた。

 田舎にくると、時間の過ぎるのがひどく遅く感じる。
 午後六時になると、卓の上に大皿にのった料理がいくつも並べられた。どれも、懐かしい郷土料理ばかりだった。
 押し寿司に、芋煮、煮豆に、天ぷら、焼き魚、鯛飯。どんどんと台所から大皿が運ばれてくる。大勢でのこういう食事は久し振りだった。
 
 克彦の言うとおり、午後六時をすぎると、次から次へと人が入ってきた。そうして、卓の上には日本酒の瓶やビール、焼酎などが並べられる。
 広い部屋なのに、人のせいで窮屈に感じた。
 克彦は、はいってくる人達に「おう」とか「久し振りじゃの」などと声をかけている。でも、みんな春馬の知らない顔ばかりだった。

 多少の疎外感を感じつつ、日本酒をチビチビと飲みながら、久し振りの郷土の押し寿司を食べた。独特の酸味と酢飯の甘さに、心が一気に学生時代に戻ったような気がした。
 
 部屋の中の喧噪はましていく一方だ。
 みな、酒が入るとより饒舌になっていた。中には、歌い出す物までいる。
 春馬は紅い顔をして大きな声で民謡を歌っている男性から、部屋の奥で横たわっている叔父の方へと視線を移した。
 そうすると、突然にそこに「死体がある」という事が迫ってきているような気がした。それは薄寒い恐怖を伴った。

「ちょっと……」
 春馬は酒で顔を紅くしている克彦の隣から立つと、縁側に出た。室内の明かりがもれていて、普段はただ暗いだけの庭も、薄明るくなっていた。
 ぼんやりと見回していると、かつて自分が「受験勉強のために」と建ててもらった「離れ」が見えた。自分はあの中で、高校生の青春時代を過ごした。あそこは静かで落ち着いていてくつろげる空間だった。
 春馬はそのまま縁側からつっかけを履いて庭におり、「離れ」の方へと歩いた。通夜の喧噪も遠くなる。「使わないから施錠されているかも知れない」と思いながら、ドアノブをあけてみた。そうすると、意外にもドアはきしむ音をたてて手前に動いた。

「あぁ」
 庭に漏れている光で、うっすらと室内が見えた。それを見ると、はじめて春馬は「戻ってきたんだ」という気持ちが押し迫ってきた。
 入り口付近のステッチを入れると狭い室内が明るくなった。
 机もベッドもそのままだった。室内に入り、ぐるりと見回すと、一気に学生時代へと精神がさかのぼるような気がした。
パイプベッドに腰に落としてみる。壁にそって置かれている書棚を見てみると、本の位置が微妙に代わっていた。義弟の剛か他の誰かが持ち出したりしたのかもしれない。そこには推理小説から受検用の英単語集、落語や歴史の研究書などがたてられている。学生時代は色々な物に興味があって、様々な本を買い集めた。書籍の背表紙を眺めていると、その本を読んだときの気持ちが蘇ってきた。
 あの当時には「自分が男を好きだ」ということにも悩んだ。でも、さすがにそんな本を手にする勇気はなかった。ただ、純文学などを読んでいて、そういう場面が出てくると妙に胸が騒いだものだった。『自分だけじゃないんだ』という事に安堵していた。
 書棚の隅にある数学の参考書を手にとってページをめくった。それは高校生の時に同級生から譲ってもらった物だ。当時、その相手の事が好きだった。だから、この本を開くたびに、その友人が傍に居るような気がして、ドキドキとしたものだった。若かったな。そうして、無垢だった。
「あ」
 久し振りに見る、ややこしい数式をジッと眺めていると、不意にドアが開いた。
 ぎぃときしむ音に、そちらの方に目をやると、スーツを着た男が立っていた。
「あぁ、誰か居たんだ。珍しく電気がついていたから……。どうしたのかな、と思ったんだ」
 男は春馬と同世代に見えた。しかし、見た事のない顔だった。遠縁の親戚なのかもしれない。もしくは姻戚関係にある誰か。もう郷里をでて十年。通夜の間もほとんどがしらない顔だった。
「久し振りに帰ったから、自分の部屋はどうなっているのかな、と思ったんだ。ほとんど変わってないな」
「あぁ、ここ君の部屋なの?」
 男はうつむき加減にそう言ったので、表情は見えなかった。
「僕は、酒が苦手だから逃げてきたんだけどね。居場所がなくて、庭をぶらぶらしていた所だよ」
 男は周囲を見回すようにグルリと首を回した。カッターシャツから伸びている首は白くて細かった。すこし酒を飲まされたのか、顔が微かに赤らんでいるようだった。
「あぁ、俺も。ああいう親戚の寄り合いっていうのには馴れていないし。大学で大阪にいってからはほとんど帰ってきていないから、誰が誰だかもさっぱりで……。で、気まずくてここに逃げてきたんだ。よかったら、ここで休憩したら? 本もあるし」
 男は部屋の中の本棚を覗き込むようにしてから「いいのかい?」と首をかしげた。月明かりに照らされた顔は、さっきよりも白く見えた。
「あぁ、俺も暇していたところだから」
「助かるよ。ありがとう」
 男は靴を履いていなかった。
「縁側で休憩するつもりでしばらく座っていて、そのまま庭に出てしまったから。ちょっと風にあたって、すぐに引き返すつもりだったんだけど。離れると、なかなか戻るのもおっくうな気がしてね」
 そのために、彼は靴を履いていないのか、と納得した。土の上を歩いてきて汚れている靴下を見下ろし、苦笑いした。「汚れるといけないから」と呟き、男は黒い靴下を脱いで「離れ」にあがってきた。
 足も、首と同様に白かった。
「随分と本があるんだね」
 男は書棚の前に立って、それをジッと見ていたけれど特に何かに手を伸ばす事はなかった。春馬はベッドに腰掛けたまま、男の後ろ姿を眺めていた。
 すらりとした細身の体つきで、スーツの中で身体が泳いでいるようだった。細く長い首の襟足が妙に色っぽかった。細い腰も、切れ長の目にすっと通った鼻筋。それに赤い唇の横顔を眺めていると自然と欲情が湧いてきた。好みのタイプだと思った。
 これがバーやそういう場所だったら、間違いなく声をかけているだろう。この男が喪服に着替えたら。より色気が増すだろうと思った。この男の喪服姿が、一瞬頭に浮かぶと心臓がドクンと大きく脈打った。
「相変わらず、母屋の方は賑やかみたいだね」
 男は本棚を眺めると、そのまま春馬の隣に腰を落とした。距離が近くなる。ベッドに置いている手と手が、ギリギリ触れ合いそうな距離だった。
「お前も葬式のために帰ってきたのか?」




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